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三元論に基づく「感情箱」応用事例〜穆天子伝アドベンチャーゲームエンジン〜

Updated: Mar 3



古代中国の周王朝・第五代王、穆王(ムーワン)の軍勢が西域へ大遠征を行い、その後に洛陽に帰還する。彼は盛姬と恋に落ちるが、悲劇的な別れを遂げる——これが「中国最古の旅行記」と評される、西晋・荀勗編纂の奇書『穆天子伝』である。本ゲームアプリは、この『穆天子伝』にリメイクを加えた物語展開を有する。


上海蟹光閃BPは「高次ロボット論理学」を核とし、「三元論」という理論を研究している。本ゲームアプリはこの理論体系から生まれた「感情箱」を、ゲームエンジンとして活用した一事例である。もっとも、本作はゲームというよりもエンジンやアセットのようなシンプルな構成に留まっている。しかし、ゲーム性は間違いなく存在すると言える。そして、今回のゲームアプリで表現したエンジン構造(感情箱システム)は、どのようなゲームシステムにも応用可能である。


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ver1.01

▼スマートフォンプレイ

 Android:配信予定(時期未定:宇宙ツツジシリーズ完了後)

 iTunes:配布予定(時期未定:宇宙ツツイシリーズ完了後)

▼パソコンプレイ

 Online:上記画像をクリック

 Windows(オフライン/ZIP)

 Mac(オフライン/ZIP)

 ※オフライン版はダウンロード後に「mutenziapp」アイコンよりプレイ可能

 ※詳しい仕様等は開発ソフト「ティラノビルダー」公式サイト参照

▼構造

 提示される感情選択の全てがXYZ値を伴う「感情箱」に集約される。物語は最終的に以下の【8パターン】の結末に分岐する。

▼オープンソース

 ファイルダウンロード(ZIP)

 ソフト『ティラノビルダー』により随意に閲覧・編集可

▼オープンソースデータ使用原則

 本データは他者に物理的・精神的・経済的な危害を与える活動(※)でない限りにおいて積極的・建設的・創造的な二次利用を推奨する。その際、作者に利用許可を求める必要は一切ない。

(※物理的・精神的・経済的な危害を加える活動とは、手塚治氏の禁忌原則を改良した以下の項目、「①戦争・災害・事件など外的被害を受ける対象を揶揄する事」「②職業・人種・宗教など人的迫害を受ける対象を侮蔑する事」「③民族・国民・大衆など善意を基軸に生きる対象存在を嘲る事」「④その他の悪循環を生み出す愚劣な発言を行う事」に関連する行為全般を示す。ただし、それらの行為に大多数が納得し得る合理的事情があるのなら、その限りでは無い。)

▼アップデート情報

 2021/1/17:1.01:分岐選択テキストの一部修正/一部本文の加筆・調整

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奇書『穆天子伝』ラストシーン:盛姫の国葬(原作に基づくリメイク)


 壬寅の日、謀父の指揮によって群臣による哭礼が執り行われた。喪主は穆王が務めた。この儀が終わると、穆王は彼女を哀悼して、瑶池のほとりの地名を哀次とした。哀次の地の毂丘で、盛姬の遺体の殯(もがり)が行われた。

 古代の貴人は本葬が行われるまで、遺体を仮に納めて安置したのだ。その理由は、生前に縁のあった者が最後まで命を見届けるという意味、そして死者への感謝と輪廻の願いを込めるという意味があった。遺体はやがて腐り、骨となった。

 殯が終わると、ただちに本葬の儀の準備が勧められた。まずは、穆王の娘であり王女の叔㛗が、身内の儀を司った。続けて賓客が洛陽に呼ばれ、哭礼が行われた。この哭礼は類を見ない規模であった。全ての内史位が竹簡を掲げて哭し、全ての大祝位が供物を天に向けて哭し、侍従が俎台を掲げて哭し、楽人が琴・瑟・竽・龠・管などを掲げて哭し、盛姬の父兄や同族・爵位ある者が哭し、柏絮や刑候や恩帰が哭し…とにかく、あらゆる役人や賓客がそれぞれの職位や身分に応じて哭した。互いに胸を打ち足踏みを行い、三度の大きな哭が示されて、この儀は終わった。

 塩漬けにした豚肺の羹、干した大きな肉の切り身、ナツメが入った粥、冷やし粥、塩辛、干し魚、酢漬けのニラ等の供物が、祭器・鼎・敦皿・壺などに丁重に並べられた。これらの供物は神に捧げられ、地には清めの為の酒がまかれた。本葬の喪主を務める王子の伊扈に献上した。伊扈は慣れない手つきで献上品を受け取った。同じように、供物は叔㛗にも献上された。叔㛗の方は極めて洗練された神妙な顔つきで、これを受け取った。これが終わると、郊父が楽人へ酒を勧めた。

 癸卯の日、穆王一行は棺を伴い、楽池の南へ向かった。最初に棺を納める為の車両が運び出された。この車両を引いていたのは、地理的にも関係的にも、洛陽にもっとも近しい谷・畢・黄の男子であった。葽豫、高奔戎、孟悆ら、禁衛軍が棺を伴い現れた。棺が車両に納められた。車両をひく馬は造父が操った。その周りを梁固、畢矩、参百、耿翛、芍及が騎馬で囲んだ。井利、謀父、郊父が、この車両を先導した。鐘が打ち鳴らされ、龍旗が掲げられた。棺の後ろから、哭して足を踏み鳴らす従者達の群が続いた。 やがて鼓の音も響き始めた。

 この葬儀の列が完全に洛陽の門を出きるまで、とても長い時間が費やされた。穆王、周王室の父兄・子孫、穆王の群臣、盛姬の縁者、これだけでも七列、これに加えて踊りや音楽を執り行う者が三十列もあったからだ。一列につき百人は属した。巨大な龍のようなうねりが、ゆっくりと、洛陽の門を離れた。彼らは小さな声で互いに哭して、胸を打ち、三度足を踏みながら、穆王と盛姬の想い出の場所、姑繇の川の近く、重壁台を目指した。

 穆王が、重壁台の地を踏んだ。天幕が張られ、あらゆる葬具が置かれた。柏夭が鐘を打ち鳴らして、郊父が塵避けの幕を頭上に張り、高奔戎が車両から棺を下ろした。禁衛軍が一斉に、再び胸を打ち鳴らし、足踏みをして、最後の哀悼の意を示した。棺が墓穴に入れられ、副葬品が添えられた。穆王はこれをもって、葬儀の終わりを宣告した。遠方から来た賓客に深い礼を述べた後、穆王は静かにこう告げた。


穆王:ここを「哀淑の丘」とする———


 葬儀を終えた後、穆王から近しい家臣一同にひとつの願いが寄せられた。謀父がこれを受け、すぐに準備を整えた。再び、穆王・文官・禁衛軍、崑崙の旅ですっかり絆を深めた面々が編成された。ただし、崑崙の旅よりも禁衛軍の人数は少なかったし、移動の距離も千分の一にも満たなかった。それは小さな旅路だった。穆王八駿が活き活きと駆け出した。五鹿の地を経て、早くもその翌日、漯水のほとりに到着した。

 漯水は澄んでいて、とても穏やかな陽気であった。各々の家臣が散らばり、ゆっくりと釣りを始めた。穆王は二本の柏樹が生えている木陰に腰掛け、釣り糸を垂らした。そして、彼は懐からひとつの書を取り出した。出立の時に西王母から譲られたものを、まだ目にしていなかったのだ。そこには、次のような言葉が記されていた。


比徂西土,爰居其野。虎豹为群,于鹊与处。嘉命不迁,我惟帝女,彼何世民,又将去子。吹笙鼓簧,中心翔翔。世民之子,唯天之望。(私はこの西域の地に来て、その地に居を構えました。ここは虎や豹が群をなし、その周りをカササギが楽しそうに囲っております。獣も、鳥も、ここでは仲良く平和に暮らしているのです。天帝様から私に与えられた天命は、この平和を守れというもの。私は天命に従う娘です。貴方の民は、貴方が天命であり、貴方を見捨てて去る事は有り得ません。貴方の民は笙を吹いて音を楽しみながら、慎みある礼をもって、天命を守るでしょう。貴方の民が、貴方を慕って集まっているのは、天命の望みです。)


 西王母らしい、文芸の彩りある鼓舞の詩であった。穆王は小さく頷き、書をまとめて、懐に戻した。対岸で、近隣の村の子ども達が無邪気に遊んでいた。穆王はぼんやりと、川と子供達を眺めていた。すると自然に、涙が溢れ出た。彼にははっきりと、自分の緊張の糸が切れたように感じられた。止まらぬ涙が、ただポタポタと流れ落ちた。悲痛な喪失感が、今になって、改めて穆王の心を痛めつけた。その穆王の様子に気がついた葽豫が、彼の横に進み出て、こう言った。


葽豫:自古有死有生,岂独淑人?天子不乐,出于永思。永思有益,莫忘其新。(穆王、古より人には生があり、そして死があります。盛姬様だけが特別な悲運を受けた訳ではありません。穆王はその苦しみを永遠に胸中に抱こうとされています。しかし、私たち生きている者は前へ進まねばなりません。死を受け入れて、新しい道を進まねばならないのです。)


 穆王はぼんやりと葽豫の方に顔を向けた。何を言われているのかも、なぜそこに葽豫がいるのかも、よく分からなかった。だが、急に彼の心に熱が宿った。穆王は立ち上がり、葽豫の肩に手を置いて、白義にまたがった。穆王は天を仰いだ。



『穆天子伝』備忘録

※百度百科「穆天子传」より引用


1)周穆王(ムーワン)とその物語

※Wikipedia中文「昭王」より引用/穆王の父/清時代作品/作者不明


 「穆王(姬满)」は国内軍事拡張に成功した「昭王(姬瑕)」の息子、周王朝・第五代王。活動年は前1026年〜922年頃、帝在位は55年。「中華最古の旅行記」と評される『穆天子伝』の主人公として描かれた人物だ。「国を軍力によって高めて周辺諸国を平定した父王、後を継いで天性の智と武を発揮した子王」という関係性は、古代ペルシアのアレクサンダー大王の状況と非常によく似ている。歴史研究者はよく、「様々な古代中国神話・小説と西洋のストーリープロットが酷似している」という点を指摘する。そのアイデアを拝借すれば、紀元前4世紀のアレクサンドロス大王の話が、紀元前3世紀の中国に伝わってオマージュされ「穆王」と言う人物史に結びついたという説も成り立ち得るのかもしれない。

 『穆天子伝』制作の経緯は次の通りである。同書は魏晋の文人「荀勗(前3世紀-289年)」が晩年に編纂した作品である。編纂の為に用いた「オリジナル資料」は、謎めいた大量の竹簡だった。この竹簡は汲群(現・河南省)にあった「魏襄王の墓」に収められていたという。281年(太康二年)、盗賊の「不順」が墓荒らしをした際に偶然発見されたと聞くが(※)、その真偽は不明。この盗賊・不順は自らの罰を省みずに文化的価値を優先して朝廷に竹簡を届けたのだろうか。それとも、ただ偶然に犯行が露呈して竹簡が没収されたのだろうか。これも状況はよく分からない。

 編集者である荀勗の編纂者としての功績は『穆天子伝』だけでは無い。彼は武帝(司馬炎)下で「中書監(英国で言う所の枢密院職)」の職位にあった際、先程の竹簡資料を基にして、『汲塚書』『竹書紀年』『中經簿』といった作品を取り纏めている。『穆天子伝』という物語は、この『汲塚書』に収録されている。どの作品も、学者達にとって歴史的価値の計り知れない存在である。

 この編纂者・荀勗は、少し遡れば馴染みのある人物にも辿り着こう。彼より三世代ほど前の三国時代。文芸活動を尊んだ「魏の曹操」に仕えた有名な軍師に「荀攸」「荀彧」がいる。名前を見ても察せられる通り、彼らは編纂者・荀勗の祖先である。尚、荀勗が中書監に就任したのは、武帝側近の「賈充・李胤」が亡くなった後の282年(太康三年)である。荀勗はその後に289年(太康十年)に逝去している。すなわち、『穆天子伝』はこの8年間のどこかのタイミングで編纂されたと考えられる。

 『穆天子伝』に描かれた穆王の旅程は実に圧巻である。彼らは都の宗州(洛陽)を出発後、崑崙山脈・アルチン山脈・イシクリ湖・天山山脈などの背を渡りながら中央アジアへ突入(タジキスタン・キルギス・カザフスタン付近)、グルッと回って、帰りは北寄りのジュンガル盆地・ボグダ峰・ウルムチのルートを辿って帰還した。3万5000里(約14000km)の旅路と言われている。大軍勢を率いて行う事を想定すると、兵糧や馬を確保しにくい上に極寒の冬期を乗り越えねばならぬので、非常に厳しいものであったはずだ。


※竹簡発見について:『晋書』に書かれた「竹簡発見の年」は、各章でバラつきがある。「武帝紀」には279年(咸寧五年)、「衛恒伝」には280年(太康元年)、「束晢伝」には281年(太康二年)と書かれている。荀勗自身は281年と記している。


2)人物紹介:河宗の子孫「柏絮」

 作中に「柏絮」という人物が登場する。この人は河宗の子孫である。河宗とは「河伯」の事だ。この「河伯」を聞けば、民話や伝承などに詳しい人にはピンと来るかもしれない。河伯はキュウリと相撲が好きな神人である。この河伯は関西へ伝わった後に、日本人もよく知る妖怪「河童」になったと言われている。

 では、オリジナルの河伯というのも、頭に皿を乗せた珍妙な妖怪なのだろうか。とんでもない。先述の通り、神々しき神人である。諸説あるが、その存在は白龍の曳く車に乗る者であるらしい。また、本人も白龍や人魚に変身が出来るという説もある。中国から日本に伝承が渡った結果、白龍の守り神が緑色の薄気味悪い妖怪に変化していく様は、民俗学的に興味深い。蛇足となるが、雨合羽は「河童」とは無関係。「合羽」はポルトガル語「capa(カッパ:英語で言うケープ)」に由来する。

 よって、オリジナルの河伯はジブリ映画『千と千尋の神隠し』に登場するハクのようなイメージかもしれない。神人と言われるが、実は元々「冰夷」という普通の人間であった。黄河で溺死した際に世を司る「天帝」から「黄河の神として、しっかり場を治めてくれ」と任命され、太守のような立場となったのだ。また、「河伯」は男神であるが、これに付随して女神の「洛嬪」もいる。二人は夫婦であり、洛嬪は「洛河(黄河の支流:陝西省洛南県付近の川)」の管理者である。

 別の中国の故事『嫦娥奔月』に、この洛嬪が登場している。『嫦娥奔月』の主人公・弓の達人「后羿」が、その女神「洛嬪」に恋をして「河伯」の左目を射抜いているのだ。状況的には后羿が間男の立場の癖に、何とも野蛮である。しかし、野蛮と言うのなら河伯の方も負けてはいない。河伯は「民よ、お前達が若い娘の生贄をせんと、川を氾濫させるからな」という圧政を行っていたという話もある。この状況で考えられる構図は3パターンである。「①河伯が民と洛嬪を苦しめていて、洛嬪が救いを求めていたから、后羿がそれに立ち向かった」、「②河伯と洛嬪が穏やかな生活を営んでいたのに、欲深い后羿が神殺しを行った」、「③后羿も河伯もお互い様の悪人であり、自らの欲を巡って衝突した」。物語にするなら、③が面白いかもしれない。「ヴィラン同士の仁義なき戦い」を描く中国故事というのは、あまり開拓されていない分野だ。

 原書『穆天子伝』に登場するのは、その「河伯」の子孫だという「䣙柏絮」。物語冒頭で、䣙人国(内蒙古カラホト付近)に来訪した穆王を丁重に出迎えた。


3)人物紹介:穆王の家臣「井利」

 「井公利」とも評される。穆王からかなり厚い信頼を寄せられていた家臣である。旅を終えて周王朝に帰還した後、穆王が一度だけ「賭け事」を楽しむエピソードがあるが、その相手が「井利」だ。なお、直接の関係性は無いが、日本の苗字にも「井利」が存在する。井利さんを知っているあなたは、かなりレアな人だと言える。統計によれば、日本国内で約160人しかいないのだ。


4)人物紹介:穆王の家臣「梁固」

 「逢公固」「逢固」とも評される。大夫(貴族)の家臣として井利と共に穆王からの信頼を寄せられていた。原書では燕然山の麓に到着した際、穆王から「井利、梁固、二人で六師の軍隊を率いよ」という命が下されている。

 周王朝滅亡後の春秋時代・斉国のイメージで言うと、「師団」とは「約1万人の兵力」を有する事になる訳だが(連隊:二百人、旅団:二千人、師団一万人)、それを「六つ」率いるなんて想像を絶する。本当だろうか。

 そんな事を考えながら改めて調べてみたら、改めて周代の軍構成に関する知識を得て、先述の計算が誤っている事を把握した。周の軍構成の基礎は「伍」という単位。5人の兵士が集まった状態である。こちらは春秋戦国時代を舞台とした漫画『キングダム』に描かれていたので、聞き覚えがある人もいるかもしれない。その上位は、「伍」の五組・計25人によって構成される「両」である。この「両」は「馬戦車一両」に付き従う兵の基本単位となるので、その名称が付与されているという。更にその上位は、「両」の四組・計100人で構成される「卒」である。また更に「卒」の五組・計500人が「旅」となる。これが今で言う「旅団」の周時代版となる。そして、その「旅」の五組・計2500人で構成されるのが「師」となる。すなわち、『穆天子伝』に度々登場する「六師」というのは、「6×2500=15000人」だと分かる。これならば現実的な数字だと思われる。

 なお、周王朝の軍構成の最上級は、「師」の五組・計12500人によって構成される「軍」だと言う。人事については、「旅長」が下級~中級大夫、「師帥」が中級~上級大夫が担当するという事らしい。「軍」は大臣級の人間が率いねばならない。


5)人物紹介:河伯由来の国に住む「柏夭」

 「柏夭」は、河伯がかつて棲んだとされる地にいた国主。原書では陽紆の燕然山(現内蒙古陰山付近)で穆王を出迎えた。後に重要な祭儀が執り行われ、「柏夭」に「河伯」の魂が乗り移り、穆王に予言と祝福の言葉を投げかけている。「柏夭」はそのまま穆王の旅にしばらく同行をする。歴史や地理学の知識を多く持つらしく、度々穆王にご当地案内を行う「物知り博士」として存在感を示している。


6)穆王の臣下「膜昼」

 「膜昼」は「柏夭」の提案により、黄河北部の領主となった人物。その目的は周王朝によって滅びた「殷国」の祖先達を祭る為である。こうして聞くと、周王朝は「殷国」「夏国」等、それより遥か昔の祖先達に畏敬の念を払っている事が伺える。このあたりの先人尊重の精神性が、後に儒教の始祖となる孔子に激しいインスピレーションを与える事となる。


7)人物紹介:「𪃋鳥山」の「居慮」

 『穆天子伝』で一瞬だけ姿を現す人物、「居慮」。彼は崑崙・𪃋鳥山にある「黄帝の遺跡」の近くに住んでいる部族のひとり。第二巻の冒頭で穆王に酒を献上する、という場面にだけ登場している。私が敢えてこの人に触れた理由は「𪃋鳥山」の漢字が興味深かったから。「𪃋(中国読Zhan、日本読せん)」という漢字はどう頑張っても、普通のやり方ではパソコン入力が出来ない。なぜなら、既に「𪃋」は現代において消失している漢字だからだ。中国語を知る者であれば、ピンイン入力を駆使してに<垔鸟>という二つの漢字を捻り出し、左右で一文字である事を示しても良いが、その表記ではどうにも格好が付かない。

 そのような背景から、私が「𪃋」の入力の為に「中國哲學書電子化計劃」という香港系サイトを活用させて頂いた。こちらのサイトでは様々な中華古代哲学書の電子化が繁字体によってなされており、そこにしっかりと『穆天子伝』における古字も描かれているのだ。ちなみに、同サイトに収録されている各古書は英語訳も用意されている。彼らは金銭的利益よりも学術共有の為に活動を行っているようだ。彼らのプロジェクトは、インターネットの持つ力を極めて正しく使っているように感じる。非常感謝。

 尚、簡字体版の原文は「百度百科(中国版のWikipedia)」に掲載がある。


8)人物紹介:大祝(名無しの神官達)

 穆王が初めて「柏夭」と見えるシーンでは、黄河に向かって神聖な祭儀が行われる。その際、一通りの儀式の準備を補佐したのは「大祝(曾祝)」である。私は当初「祭儀長として働いている優秀な臣下の名前か?」と思ったのだが、こちらは役職名だったらしい。その後に孔子が語っている通り、周時代の儀礼手順は非常に細かく設定されていただろうから、穆王の旅にはまとまった数の「大祝」が旅に同行していたと思われる。


9)人物紹介:穆王の家臣「謀父」

 「祭父」「祭公謀父」とも評される。「祭公」は役職名。「謀(はかりごと)」という漢字が入ると、日本式イメージでは「悪い奴か?」と感じてしまうかもしれないが、これは完全な誤解だ。中国では言語の全てが漢字である(日本のようにひらがなやカタカナが無い)ので、発音の当て字として漢字が適用される事も多く、そこまで固有名詞と漢字自体のイメージが関連していない。例えば、『穆天子伝』よりずっと後の時代において周王朝を滅ぼす事になる地方民族は「犬戎」、王朝史最後を飾った清王朝を創始した民族は「女真」だが、彼らは犬と関わりがあるだとか、女と関わりがあるだとか、そんな事は一切ない。また別の例で、三国志時代の袁紹軍にいた将帥と言えば「文醜」と「顔良」だ。彼らは曹操軍によって一つの戦いの最中に討ち取られてしまった二名である。「文醜」がミミズ文字しか書けない悪筆家だったとか、「顔良」が美女を惑わす超イケメンだったとか、そんな事はまったく無い。

 このように、中国漢字における人名や固有名称は、漢字本来の意味を伴わない記号だという事が多いのである。


10)人物紹介:西域の手ごわい騎馬部族「犬戎」

 上に挙げた「犬戎」は『穆天子伝』にも登場している。彼らが国を構えていたのは、現在の陝西省付近だ。「犬戎」の地に入った穆王を直接出迎えたのは、その領主である「胡」という人物。酒を勧められた穆王、これを飲んで非常に楽しんでいる様子。とても穏やかな場面である。しかし、彼らは周王朝にとって明らかな敵対勢力。しかも、恐ろしく手ごわい連中。穆王は彼らの征伐を目指して奮闘をしたが、遂に果たす事は出来なかった。

 その後、周王朝第十二代「幽王」の時代において、遂にこの「犬戎」は本格的な王朝侵攻を開始する。これによって周の首都・鎬京が崩壊し、周王朝は滅びる事となった。

 尚、前項とは逆の話になってしまうが、「幽王」という漢字には漢字本来の意味が込められている。この幽王の本名は姫宮涅。前781年に即位しから3年後、彼は褒地より後宮に入った褒姒を溺愛するようになった。姫宮涅は褒姒を楽しませる為に奔走し、佞臣の虢石父を重宝する。この「女+佞臣+堕落」のお馴染みの中国皇帝破滅パターンを見事に実行し続けた姫宮涅は完璧に国を傾かせてしまう。そこに関中の大地震という天災も加わる中で、もはや家臣にも人民にも王への忠義心は存在せず、遂に大反乱が勃発する。正室の申后の父親であった申侯が「蛮族」である犬戎軍と連合し、一瞬で都は陥落した。姫宮涅らは驪山の麓で彼らによって殺され、褒姒は犬戎に連れ去られたと言う。姫宮涅のような愚かな王が他界した場合、その生前の愚かさを意味するべく王の名前には「縁起の悪い漢字」「奇妙な漢字」が用いられる。よって、幽霊を意図するような「幽王」が当て嵌められたという訳である。

 先ほど少し触れた、「秦の中華統一・始皇帝の誕生」をテーマとした漫画『キングダム』には、この犬戎の末裔が登場している。そこでは「獰猛な犬のような風体をした残虐性の高い野蛮な民族」といったようなイメージで描かれているが、こちらの「犬」の漢字は当人たちの容姿や性質とは無関係である。それに、勝手に「蛮族」というイメージが固定化しているが、それは周王朝視点から捉えた一方的な偏見に過ぎないと私は考える。犬戒視点では、自分たちの生活を脅かす周王朝の方がよっぽど蛮族である。


11)人物紹介:「長肱」

 「長臂人」とも評される。また中国漢字に関する話がコロリと裏返ってしまうのだが(ケースバイケースなのだ)、こちらの「長肱」「長臂人」は文字通り「長い肘を持つ部族」という存在となる。漢字本来の意味が、民族的特徴に適用されているケースだ。穆王は彼らを黒水の西河における領主として封じた。ここは後に「留胥の邦」と呼ばれて周王朝の祖先を祀る地となった。

 彼らの遺伝的身体性の「異常な腕の長さ」はどれぐらいなのか。『山海経』によると「三丈」あったとされる。「丈」はもともと成人の平均的身長に沿って作られた単位とされ、古代王朝時代には「約18cm/尺×1=約180cm/丈」というルールが定まっていたと聞く。すなわち、「三丈」とは「約5m40cm」という事になる。そんな「ダルシムやルフィ(前者はアクションゲーム『ストリートファイター』、後者は漫画『ワンピース』のキャラクター)」のような腕を持って日常生活を送れるだろうか。骨格からして整合性がつかない。『山海経』はファンタジー要素が強いので、これは事実では無いだろう。

 現実において、民族的特徴となる程の腕の長さを持つ存在は無いと言える。「身体の一部が長い」という特性であれば、ミャンマーとタイには人工的に首を伸ばした「首長族」という少数民族がいる。チベット・中国雲南を辿ってミャンマーに居を構えたと言われる彼らは、幼少期から首に真鍮のリングを巻き、成長と共にそのリングの数を増やして「極端に首を伸ばす」のである。彼らの美的感覚では、首が長い者ほど魅力があるとされる。(尚、生物学的な厳密さで表現するのであれば、彼らは首が伸びている訳では無い。リングの重みや形状によって肩の位置が下がり、あごの位置が上がるので、「首が長くなったように見える」のである。)

 序でながら「意図的に身体を変形させて性的魅力を形成する」という話では、中国・清王朝における女性の「纏足」もひとつの実例であろう。当時、女性は幼い頃から小さな靴を履き、出来る限り「小ぶりな足」になるよう努力した。これはそれほど遠くない時代の話であり、現代中国人の曾祖母あたりに纏足の習慣があったと語る人も少なくないだろう。幾つかの文献を通じてみると、当時の人々の美的感覚には所謂「足フェチ」の要素があったらしい。「纏足によって小さくなった足」には、現代人が胸部・臀部に対して性的魅力を覚えるのと同様の効果があったと思われる。その足を生身で露出するという状態も、現代人が胸部・臀部に対して抱く感覚と近しいものがあったらしい。

 このように纏足は極めて独特で崇高な身体美を生み出したと言えるが、その代償は大きかったようだ。「纏足習慣のあった曾祖母の記憶」を耳にする機会があったが、そこでは「日常生活で体軸のバランスを上手く保てず、特に老年になると大変な苦労があった」という事であった。


12)人物紹介:穆王の家臣「郊父」

 「正公郊父」とも評される。黄河を渡った先にある「温谷楽都(現・青梅省楽都と言われる)」という場所で、「八駿」と呼ばれる八頭の名馬を準備する役目を追った人物だ。『穆天子伝』には、彼が「正公」という職務についている事が描かれている。この職は主に政治面の整理を行う立場にあって、馬とはおそらく関係が無い。「馬の専門家」としては、この後に登場する「造父」という家臣が群を抜きに出ている。

 尚、先の「祭公謀父」の「祭公」もおそらく役職名である。そちら謀父は祈招の作詩を行う業務を担当していた。


13)「禁衛軍」の猛者・名馬たち

 「禁衛軍(七萃の士)」とは「近衛兵」の事。もっとも近い場所から常に穆王や丈夫を守るボディーガード集団だ。『穆天子伝』には穆王が狩猟に興じる場面が登場しており(この時代は「狩猟」が貴人の遊楽となっていた)、そこでガッチリと王の周囲を固める「禁衛軍」の様子が描かれている。ここに登場する御者は「造父・参百・耿翛・芍及」、名馬は「絶地・翻羽・超影・奔霄・踰輝・超光・騰霧・挾翼」だ。

 先の御者である「造父」は特に血筋が良く、中華史に詳しい方には方々に「繋がり」を発見できる人物。彼の先人を辿ると、「大費(益、伯益とも呼ばれる)」に行き着く。この「大費」は「顓頊」の子孫である。この中国神話に登場する中国黎明期の五帝のひとり、「顓頊」は、神界と現世の扉を閉じた人物だとして知られている。「造父」の先祖である「大費」は、中華最古の王朝である「夏王朝」の創始者「禹」と共に、大規模な黄河治水工事を成功に導いた。

 その大費の血を汲む造父は、穆王から高い評価を受けて「趙城」を治める事になる。そこから彼は「趙」の姓の始祖となる。戦国時代に強烈な存在感を示す「趙一族」は、この造父の子孫なのだ。また、序でながら大費の別の子孫にも触れておきたい。大費は先の治水工事の功績が讃えられて「嬴」の姓を賜っている。後世に「嬴政」という人物がいるが、それはこの大費の血筋なのだ。「嬴政」は、後に中華世界を再統一する秦国の「始皇帝」となる。

 更にまた、「造父」の子孫として有名な者にも触れておきたい。造父の子孫に、東夷(中国東部地域)の徐州を治めた人物として「若木」がいる。若木は、その経緯で「徐」の姓の始祖となっている。「徐」は現代中国姓の第11位(※)にランクインしており、現在もその名を轟かせている。

 造父がよく知られている訳は血筋だけでは無い。前項の通り、「馬の専門家」であったのだ。戦国時代に「性悪説」という観点から法学の重要性を語った論理学者「荀子(前313年~238年)」が、「造父不窮其馬(造父は必ず馬に余裕を持たせて、いざという時に対応出来るよう配慮をしていた)」という言葉を述べている。古代世界の有名人なのだ。


(※中国大陸姓ランキング:第11位の「徐」は中国大陸で約2000万人。トップ10メンバーは順番に「李、王、張、劉、陳、楊、趙、黃、周、吳」。台湾ランキングは「陳、林、黃、張、李、王、吳、劉、蔡、楊」。香港ランキングは「陳、林、黄、李、王、張、梁、呉、劉 蔡」。近年の調査だが、調査年によって多少の変動あり。台湾・香港には中国大陸とは異なり「林(リン)」が多い。)


14)穆王八駿

※百度百科「穆王八骏」より引用


 穆王の有する八頭の馬は「穆王八駿」と呼ばれる。『穆天子伝』では「速い名馬」というシンプルな設定だが、後秦国の時代に「王嘉」が編纂した『拾遺記』によって各馬に「チート気味な超能力」が付与されている。土を踏まない程の速さを持つ馬、一夜で数千kmを走れる馬、自分の影を追い越せる馬、光よりも速く走れる馬等、そのエキセントリックな能力性にSF・ファンタジー心が大いにくすぐられる。SFと言えば、物理学者アインシュタインの相対性理論が決して許さない「光より速く走れる馬」もいる。この馬に乗ればタイムトラベルが出来るかもしれない。

 この八頭の馬名は『拾遺記』版の「絶地・翻羽・超影・奔霄・踰輝・超光・騰霧・挾翼」として現代では知られているが、オリジナルの『穆天子伝』版では「赤驥・盗驪・白義・踰輪・山子・渠黄・驊騮・綠耳」と記されている。この拾遺記版と穆天子伝版、それぞれに名前のルールがある。前者は能力に因んだ名前、後者は毛色に因んだ名前である。(赤骥は火紅色、盗驪は純黒色、白義は純白色、踰輪は青紫色、山子は灰白色、渠黄は鹅黄色、驊騮はたてがみが黒色で尻尾が紅色、綠耳は青黄色。)先程の設定でも言える事だが、このあたりの命名感覚も現代人のエンターテイメント感覚とマッチする部分がある。

 このついでに、『拾遺記』の編纂者である「王嘉」という奇人にも注目しておきたい。彼は五胡十六国時代の隠士(道教活動者、道士)であり、「未来預言者」として名を馳せていたと聞く。こちらも続けてエンターテイメント感覚満載の感がある人物設定だが、もちろん当時は今ほど科学性・合理性偏重の気風は無い時代なので、尊敬を集めていた。だが、残念ながら彼は隠士としての能力不足により、自分の未来は観る事は出来なかった。王嘉は後秦皇帝である姚萇に「前秦皇帝・苻登との戦闘の内容」を具体的に予言していたのだが、これが悉く見事に大外れ。あまりの外れっぷりに激怒した姚萇は、即座に王嘉を誅してしまった。


*穆王六狗:「狗」は中国語の「犬」。穆王が狩りを楽しんだ際、名犬達も活躍している。その名は「重工・徹止・雚猳・@黄・南@・来白」だ。@部分は原書がかすれて判別不可能との事。ちなみに中国語で日常会話の中で「わんちゃん」「イヌ」を呼ぶ時は、こちらの「狗(ゴウ)」が使われる。「犬」は文語寄りで、犬種の表現や研究時などに使われる。古代においては幼犬を「狗」、成犬を「犬」と使い分けていたと聞く。しかし、穆王の狩で使用されたワンちゃんは、おそらく成犬である。原書では「狗」と書かれているが、先のルールと照らし合わせると矛盾する。地域や時世で変わるタイプの表現で、あまり深く考えなくても良いのかもしれない。


15)人物紹介:佩玉を貰った誰か

 穆王が旅中で狩りに興じながら、「俺はこんな楽しんでいて良いのだろうか」と良心の呵責を覚える場面がある。ぽつりとその心情を呟くと、「禁衛軍の誰か」が「王は民と共に喜びや利益を共有するべきであり、それが常道なのです」とフォローした。すると穆王、えらく喜んでしまって、左腰に下げていた佩玉をその人に与える事にした。

 別にどうという事もない場面なのだが、個人的にはこのやり取りが実に小憎たらしいと感じている。穆王は「狩りをしている場合じゃない」と考えるのなら、最初からやらなければ良い。それでも「狩りをするんだ、楽しみたいんだ」と判断した訳なのだから、真剣にその遊びに興じれば良い。穆王はおそらく、後ろめたさを合理化しようとして先の言葉を口走っているのだ。しかも、おそらく彼は確実に臣下の誰かが「楽しむ王を咎める人なんていませんよ」と答えるのを想定している。「王の言う事はごもっともです、今すぐ狩りを止めにしましょう」と言う臣下がいる訳がない。

 そして、この絶好のタイミングを逃さなかった「誰か」がいる。この人物は穆王の求めるニーズを的確に読み取って、言葉にありったけの装飾を付けながら王に取り入った。このように言葉巧みに主君に取り入る「佞臣」は、史実でも小説でも、中国のあらゆる場面で登場をする特徴的なキャラクター像に違いない。

 別に、この場面をそこまでギリギリと歯軋りをしながら論察する必要はない。穆王は本当に何気なく気持ちを語っただけかもしれないし、それに答えた兵士も本当に心からの言葉を口にしただけかもしれないのだ。この状況の背景にある心象風景は定かでは無いが、仮に私がその場にいて両者の腹黒さを感じたら、遊びの免罪符を貰おうとしている主君にも、貰った佩玉を嬉しそうに腰に装着する仲間にも、心の中で唾を吐いているに違いない。


16)景勝と名産物と美人の産地「赤烏国」

 西の「赤烏国」に到着した穆王。この場面では何名かの赤烏族が登場する。まずは献上品を王に差し出した国主の「兀」。続けて、こちらは祖先となるが、穆王の家臣「謀父(祭父)」による赤烏血筋の解説シーンに登場する「大王・亶父」、大王の嫡男で刀剣製造を担当して東呉を治めた「呉太伯」、兀の寵臣で玉石製造を担当して春山西部を治めた「長季綽」である。この解説シーンでは、「彼らは周王朝の始祖と同じ血を組み、その技術性は現在の周王朝に大きく関わっている」という事が示されている。

 穆王はその謀父の説明に感銘を受けつつ、「ここは天下の良山で、植物体系が素晴らしく映えて穀物も豊かだ」と語って、彼らに多くの宝を与えた。そして、当地で穆王は5日間の滞在を行い、広楽の調べと美女を堪能している。兀が穆王をもてなす為に向けたのは、「女聴」と「女列」という2名の者。彼女達は穆王からすこぶる寵愛された。おそらく、彼女たちはその後の旅にも同行したと思われる。穆王は無邪気な様子で「赤烏氏美人之地也,珤玉之所在也。(赤烏国は美人の産地で、宝玉が沢山ある所だな。)」と口にしている。この発言は、もう少し誇張気味に「この地は『宝玉』が沢山いる所よのう、兀殿!」と言い換えても良いかもしれない。


17)人物紹介:「曹奴国」の「戯」

 崑崙の北西に位置する「洋水」という河を渡った先で、穆王は曹奴国に到達する。ここで民族の領主を担っているのが「戯」という人物だ。「戯」は酒を振舞いつつ、「食馬900頭・牛と羊7000頭・くろきびと米100車」を穆王に献上している。穆王は「梁固」にそれ受け取らせつつ、返礼品として「黄金の鹿・銀のノロ・貝飾りのある朱色の帯40個」を「戯」に与えた。この「ノロ(麕)」というのは鹿の一種族で、鹿よりも一回り小さな、何だか妙にあどけない顔をした連中である。中国語では「狍」「西方狍」と言う。

 この場面だけではなく、穆王は各地点でこうした「交換会」を執り行っている。これには儀礼の意と共に、兵站機能の補強目的も含まれている。軍隊移動時における補給ラインの確保は華々しいものではないが、戦況を大きく左右する重要課題である。その良い事例が19世紀のロシア帝国とナポレオン軍との戦いだ。ロシア帝国はほとんどまともな戦闘もせずに補給ラインを徹底的に絶つ事で(焦土作戦・冬将軍)、ナポレオン皇帝率いる超巨大軍を完膚なきまでに叩きのめした。


18)「群玉之山」を守る「容成氏」

 穆王が黒水の河に沿って進み、「群玉之山」に着いた時、編纂者のナレーション的説明が入る。「ここは容成氏が守っている場所で、丘は平らで険しいところは無く、四方に道が繋がっている」と。このナレーションからは「容成氏」が何らかの部族や血筋である事は分かると思うが、「本当に容成氏という部族が地を治めているのか」、それとも「容成氏という部族の魂がこの地を見守っているのか」、これが不明瞭である。というのは、この「容成氏」は穆王の時代より遥か昔、伝説上の黄帝の大臣を務めていた一族だったという話があるからだ。

 実際、物語の中では「容成氏」の誰かと出会った記述が見受けられない。つまり、「容成氏が守っている地」という先程のナレーションは、「彼らが聖なる存在となって地を管理している」という意味である可能性が高いように思う。黄河を守る「河伯氏」と同じように、ここでは「群玉之山」を守る「容成氏」という神格が存在したのかもしれない。


19)人物紹介:「容成氏」の「潜旹」?

 あるいは、穆王は「容成氏」の者と出会っているかもしれない。原書の文字が読み取れない部分があるのだ。『穆天子伝』には穆王が「羽稜の地」で「潜旹」という人物と見えたと書かれている。穆王は事前に、羽稜の地の人たちが玉石加工に秀でていると聞いていたのだが、「潜旹」が献上品として差し出したのは家畜だった。「期待していたのに、そいつぁ話が違うじゃねぇか」と不満げな穆王。彼は献上品を跳ね返そうと思った。その時、「柏夭」が「彼ら容成氏の一族は、礛諸の末裔で御座います。そう疎かにしてはなりません。」と口添えをしている。この会話から察するに、羽稜の地で、潜旹が率いている部族は容成氏であるという事になる。また更に、彼らは「礛諸(おそらく『淮南子』説林訓に登場する古代思想家の一人)」という偉人の末裔であるという事も語られている。という訳で、容成氏は実在するのかもしれない。

 ちなみに、穆王は柏夭の説明にえらく納得して、気を改めて丁重に潜旹と接し、黄金の罌(中国読ユィン、日本読おう:水差し、酒瓶)と朱砂三百袋を彼らに与えている。周王朝が「血筋」を大切にしている様子が十分に伺える一幕だ。


20)人物紹介:「群玉之山」で玉石製造の主任となった「邢侯」

 穆王の旅に同行した大夫「邢侯」は、先ほどの「群玉之山」で4日間の滞在が行われた際、玉石加工の監督に任ぜられている。邢侯は、後の「邢国(現・河北省邢台付近)」の原点を築いた者だと考えられている。この邢国は春秋時代に滅ぼされてしまうのだが、当地に「麦方鼎」「邢侯簋」と呼ばれる青銅器が沢山見つかっており、その技術性・生産性の高さが垣間見られる。高水準の文化が存在していたのだ。

 なお、商王朝時代をテーマとした古典ファンタジー小説『封神演義』に描かれている「酒池肉林(商の紂王による常軌を逸した贅沢な宴」は、その邢国にあった離宮で行われたと書かれている。


21)人物紹介:「鉄山」で穆王軍に食事を用意した「剞閭氏」

 「剞閭氏」の国に到着した穆王は、彼らに「鉄山で軍の食事を提供してくれ」と命ずる。その後、「鉄山」で一通りの祭祀を終えた後、穆王は祭祀の余り物を「剞閭氏」の領主「恩帰」にお裾分けした。「恩帰」は「膜拜の礼」と共にこれを受け取った。

 この「膜拜の礼」は、いずれの人物も天子である穆王から贈呈品を貰った後に行う儀礼となっている。この礼は「ひざまずき両手を挙げて礼をする」という所作となる。今はあまり見かけなくなったが、上海のような中国の都会の片隅には、必ずこちらの「膜拜の礼」をしている物乞いがいた。彼らは「シェシェ!シェシェ!」と言いながら地面にひれ伏し、両手をバンバンと上下に動かすのだ。初めてその姿を見る者は只ならぬ同情の念を抱くかもしれないが、都会の物乞いは「職業」である事もしばしばある。

 なお、この鉄山では、正公・諸侯・王吏・天子それぞれの禁衛軍が大集結して華々しい宴会が開かれている。その後、おそらくこの宴会の準備を担当した「𪃋韓国」の領主「無鳧」とその家臣達にかなり多くの褒美がもたらされている。その少し前に穆王は「𪃋鳥山」に立ち寄っている。現代に存在しない漢字だと言った「𪃋」が、またここに「𪃋韓国」として登場する。当時、周辺地域で多く用いられていた漢字なのだろう。ちなみに、領主である「無鳧」の「鳧」も現代に存在していない漢字である。


22)人物紹介:「茂@山」の「智氏」

 「智氏」は新疆ウイグル自治区、おそらく巴里坤(バリコン)付近に居を構えていた部族だと思われる。「茂@山」の「@」の部分は分からない。そこの字がかすれてしまって完全に判別不可能なのだ。

 なお、「智氏」は穆王からの贈呈品として、具物の他に「桂薑」をたんまりと貰い受けている。この「桂薑」とは「肉桂(常緑樹シナニッケイの樹皮)」の事。漢方や香辛料に重宝されるアイテムだ。「肉桂」から作られるスパイスで有名なものが「シナモン」。スイーツによく使われる甘くて香り高い「シナモン」は、いかにも現代風な顔をしてスターバックスなどのオシャレ店で鎮座しているが、実は古参も古参、むしろ「世界最古のスパイス」と評される事もあるのだ。

 更にこのシナモン、スパイスとしてだけではなく、紀元前4000年頃からエジプトでミイラの防腐剤として使われていた事も確認されている。


23)人物紹介:「瓜纑山」を治める「閼胡氏」

 「瓜纑山」は新疆ウイグル自治区の北塔山付近と聞く。この北塔山は境界線を巡って、1947年に中華民国とソ連・モンゴル人民共和国での武力衝突が起きている。平均海抜は2000~3287mと高地で、1月平均気温は-12.9度、200日以上は雪が積もっており、最大39mもの降雪状態となる。ここに行軍したのは「己亥の日※」とあるが、具体的に何月何日かとまでは分からない。しかし、ここまであまり冬の描写は無いので(第一巻冒頭に「雪が降った」という一文言はあるが)、大移動は春夏季に行われていると考えるべきだろう。ただし、北塔山は春夏であっても周辺が砂漠地帯なので、その歩みは極めて厳しいものとなる。実際、穆王一行はそこから南へ3日間進むのだが、飲み水が得られず苦労する様子が描かれている。

 この時、禁衛軍の兵士のひとり「高奔戎」が添え馬の首筋を刺すという行動に出ている。これは水が得られない為、馬の生血を穆王に飲んで貰う為の決断だ。穆王はこれによって渇きを癒やし、深い感謝と共に高奔戎に向けて佩玉を与えている。佩玉を頂戴した高奔戎が行ったのは、お馴染みの「膜拜の礼」ではなく「稽首再拝(何度も頭を垂れてお礼をする)」だった。


※中国干支歴:先の「己亥の日」のように、『穆天子伝』には前720年より使用が始まった「中国干支歴」の記述が各所に登場する。この歴は清王朝が1911年に廃止するまで続くので、何と約2600年という長きに渡って中華世界の礎となり続けた歴法なのだ。干支歴の日計算は、基本的に以下の順序で示されている。


01.甲子 02.乙丑 03.丙寅 04.丁卯 05.戊辰 06.己巳 07.庚午 08.辛未 09.壬申 10.癸酉

11.甲戌 12.乙亥 13.丙子 14.丁丑 15.戊寅 16.己卯 17.庚辰 18.辛巳 19.壬午 20.癸未

21.甲申 22.乙酉 23.丙戌 24.丁亥 25.戊子 26.己丑 27.庚寅 28.辛卯 29.壬辰 30.癸巳

31.甲午 32.乙未 33.丙申 34.丁酉 35.戊戌 36.己亥 37.庚子 38.辛丑 39.壬寅 40.癸卯

41.甲辰 42.乙巳 43.丙午 44.丁未 45.戊申 46.己酉 47.庚戌 48.辛亥 49.壬子 50.癸丑


24)過酷な「北塔山」を越えて「積山」へ

 上の過酷な高地帯をひたすら南下した穆王一行、ようやく穏やかな「積山」の一帯に入る。ここでは、「@余国」の「命懐」から、しばらく進んだ後に続けて「@国」の「飦獻」から、それぞれ酒が献上されている。「@」の部分は、やはり字のかすれによって完全に判別不可能となっている。


25)「滔水」から「黒水」へ

 上の「積山」から先に進み、穆王一行が「滔水」に到着する。「水」と名が付くので河だと思われるが、地域を示す事もあると言う。具体的な場所は確定していないが、おそらく内モンゴル自治区・居延海近くの頼河(または周辺)との事だ。ここから穆王一行は「技」を持つ幾つかの部族と出会う。まずは、豊富な食料を確保する技術に長けた「濁繇氏」。次は、「蘇谷」の地で衣服と夜具の原料採取技術に長けた「骨飦氏」。そして、「長㴽」の地から少し先の「黒水」を治める「重𢀄氏」。この「重𢀄氏」は儀礼や贈呈に使う宝玉生産に長けた部族である。

 また、この地域内には「采石の山」があり、宝玉の材料となる石「枝斯・璇瑰・𤤄瑶・琅玗・玪䧜・@䫋・玗琪・𢕲尾」の産出があったらしい。「素晴らしい玉器のほとんど全てはここで揃う」と語られているので、かなりゴージャスな場所と言える。そこで彼らは「1ヶ月」も滞在したというから、穆王は余程感動をしたのだろう。

 その後、穆王一行は「重𢀄氏」の領主である「鳏𩖿」の道案内のもと、「長沙の山」へと赴いた。「物知り柏夭先生」がここでも解説をしてくれる。「穆王殿、ここは重𢀄氏の祖先と三苗氏が住んでいた地です。」穆王は何やらその説明に感銘を受けたらしく、「柏夭」に褒美を与えている。おそらく、穆王は「重𢀄氏の祖先」ではなく「三苗氏」の方に反応をしたと思われる。

 「三苗」は中国神話において「四罪」という悪神のひとつである。神話上の名君「堯」が中華世界を治めている頃(夏王朝成立前)、この「三苗氏」が反逆を企てたという話が残されている。この「三苗」は、中国・東南アジア等に分布する少数民族「苗族(ミャオ族:日本人の祖先だという説を持つ民族)」と因果があるのでは無いかと言われている。


26)人物紹介:「文山」で献上品を受け取りに向かった「畢矩」

 上の「黒水」の地から東へ少し進むと「文山」がある。この周辺は西域の人々によく知られている場所らしい。『穆天子伝』にはこうある。「西膜之所谓@(西域の人々が言う、所謂@である)」。あぁ残念、肝心な箇所が判別不可能となっている。おそらく地名が入る箇所だと思われるが、「三苗氏」のような人名が入る可能性もある。

 ここでは、『穆天子伝』で初登場となる「畢矩」という家臣が献上品を受け取りに向かっている。当地の領主は「帰遺」という人で、差し出した献上品の中には「牥牛(ひとこぶラクダ)」が含まれていた。いよいよ西域らしい雰囲気が漂って来る。


27)人物紹介:「巨蒐氏」の「𠮀奴」

 「巨蒐氏」の地に行こうぞ、という訳で、穆王が一気に千里(約400km)を駆け抜けるシーンがある。ここで穆王一行は「巨蒐氏」の領主「𠮀奴」と相対し、献上品・贈呈品の交換儀礼を行っている。

 この場面、エピソードそのものはいつも通りなのだが、「穆王八駿」と「家臣の座席」がハッキリと描かれていて興味深い。まず、穆王が命じたのは例の八頭の馬(赤驥・盗驪・白義・踰輪・山子・渠黄・驊騮・綠耳)と2台の車の準備である。メイン車両の添え馬(副え馬:リーダー馬を左右でサポートする馬)は「右・驊騮、左・綠耳」で、骖馬(リーダー馬)は「右・赤驥、左・白義」となる。主人席に座るは我らが穆王、御者は血統高く馬の扱いが最も上手い「造父」、御者の右に座る護衛役が「@@(判別不能)」だ。

 馬車の基本構成は「リーダー陣が賢い馬と力のある馬」「添え馬が経験豊かな馬と若手の馬」だと思われるので、この車両は「監督が驊騮、主力選手が綠耳、コーチが赤驥、主力新人が白義」といった具合になると思われる。尚、これは私の犬ぞり知識から鑑みた勝手な想像なので確証は無い。

 次に、サブ車両の添え馬は「右・渠黄、左・踰輪」、骖馬が「右・盗驪で左・山子」となる。主人席に座るのは「河宗領主の物知り柏夭」、御者は「参百」、護衛は「馬の生血を穆王に献上した高奔戎」だ。これもまた勝手な想像となるが、穆王が配置した家臣の方の布陣も信頼度に関わっているものと考えられる。実際、「物知り柏夭」は『穆天子伝』の中で、おそらくもっとも穆王から褒美を貰っている人物である。


28)「𠭺𦟆の谷」の少し先にて

 「物知り柏夭先生」は、「𠭺𦟆の谷」の少し先にて穆王一行とお別れをする。穆王は「御苦労であった、河宗諸国の盟邦の主に戻るべし」と「柏夭」に命じている。柏夭はもともと河宗諸国を束ねていた長である。穆王としては旅の同行を続けて欲しい考えもあったろうが、地域の長官が延々と本拠地を不在にするのが危険だと判断したのだろう。

 この前後のシーンでは、「河宗の血を引く柏絮」「犬戎の胡」が登場する。「胡」は、「雷首」という地よりもう少し進んだ場所、献上品を穆王一行に差し出している。これらの品物を受け取るのは、初登場となる家臣「孔牙」である。初登場と言えば、続いて南進した際に訪れる「鈃山」では、先発隊であった「逢固」「毛班」が初顔出しを行なっている。


29)王の帰還

 第四巻の後半で、遂に穆王は遥かな遠征旅を終えて周王朝に戻る。穆王の在位は55年間。『穆天使伝』ではひとまとめに南征北戦の旅風景が描かれたが(もっとも戦闘シーンはあまり描かれていない)、おそらく度々、こうした外征が行われていたものと考えられる。『穆天使伝』そのものは、穆王在位13~17年の出来事が記録された作品だと言われている。

 さて、それでは周王朝に王が無事に帰還して『穆天子伝』が終幕になるかというと、そうでは無い。そこまでが、いわゆるシーズン1。ここから周王朝に舞台が移り、五巻・六巻部分は政治と恋愛に話がシフトする。シーズン2の開幕である。


30)「盛姫」に出会うまで

 「周王朝」は穆王の遠征旅によって大きな広がりを示し、周辺の国を見事に平定した。しかし、平定して終わりという訳には行かず、ここからは定期的に各部族への「監視・修繕・連携」といった保全に気を配らねばならない。まずは、「祭父」から連絡が入る。「留昆氏と陖翟氏が(和解の為の)献上品を持参して参りましたので、こちらから器物や捕虜を解放する交換条件を示し、盟を結びました」。「留昆氏・陖翟氏」は「許(現・河南省許昌市)」の地の勢力者らしい。穆王は盟を祝い、彼らに夜遅くまで続く酒宴を催した。

 その後、「雀梁」の地にある「羽稜」で休んでいた穆王に「畢」の地から急報が舞い込む。「陖翟の連中が私たち畢人の領地を侵略しております!」。陖翟氏は献上品を持ってきたばかり。油断をさせておいて時間を稼ぎ、侵略に打って出たというのか。「何という愚かで浅はかな奴らよ」と穆王は腹を立てただろう。そこで穆王は即座に武将「孟悆」に防衛を命じ、外敵「陖翟」を討伐させた。

 落ち着く暇もなく続けて舞い込むは、「霍国の領主である旧様がお亡くなりなりました!」という報。穆王は軍丘に向かい、何らかの儀礼を執り行った。儀礼の内容は不明。日本語資料には「軍丘で号泣の喪礼を行った」とあるが、原書には「天子臨于軍丘,狩于藪(穆王は軍丘の上に向かって、藪で狩りを行った)」としか示されていない。狩りに何らかの儀礼の意が込められていたのかもしれない。このような具合で、何かと慌しく国内政治に勤しむ天子の日々が流れ行く。


31)「室山」の「夏后啓」の宮殿で行われた占い

 夏王朝の第二帝「夏后啓」が住んでいたという宮殿に立ち寄った穆王。ここでは占いが行われ、「訴」という徴が出た。これは日本語資料によると「上坎下乾」という性質を帯びるものだという。調べてみると「上坎下乾」は「事業は今展開せず時機を待つべし」というニュアンスを持つらしい。

 「逢固」はこの「訴」を独自解釈し、「郊父殿もおっしゃっておりましたが、まさに今こそが何事においても好機、兵を挙げれば戦勲を、祭祀を行えば吉祥を、狩りを行えば上等な獲物を手にする事が出来るでしょう!」と進言する。穆王は、それなら狩りをしてみようかと思ったが、セカンドオピニオン制を採択し、占いの記録係である「狐」にも解釈をさせてみる事にした。「狐」は「陰の雨が降り、神が祭祀を行うという夢を見ました、これすなわち重陰を意味します」と口にした。「重陰」は「何をするにも適していない機」を意味する。穆王はしばらく考えてから、やっぱり狩りは止めようと肩をすくめた。


32)「高奔戎」の武によって「虎」を獲得

 禁衛軍で度々名の挙がる豪傑兵士「高奔戎」は、先程の「馬の生き血」にも続き、周王朝帰還後も名エピソードを披露する。大暑(現暦7月下旬~8月上旬、旧暦6月)の季節、暑さを避ける為に楼台で政を行う穆王。そこで遠方から占いが上手な者が来たとの事で、主要メンバーが集まって占いを楽しむ事にした。そうしていると、何と葦の中に虎がいる事が判明。ここで高奔戎が躍り出る。「穆王、俺にあの虎を捕らえさせて下さいやぁ!」と意気揚々。穆王が(おそらく)「殺せるか?」と聞くと、高奔戎は「殺すどころか、虎の野郎には傷ひとつ負わせません!生け捕りにして、ここで飼いましょうや!」と豪語。本当に出来るのかいなといった面々であったが、高奔戎は見事に虎の生け捕りに成功。周囲は(おそらく)大歓声、大喝采。その後、高奔戎は穆王の命に応じて虎用の檻も作り、東虞で虎が飼われる事となった。

 この出来事、軽快なタッチで描かれた小噺ではあるが、その後の中華史に意外な香りを残す事となる。河南省鄭州市滎陽市汜水鎮の西南部に、中国・秦の荘襄王からに建造された関所がある。この関所は重要拠点として機能し続け、諸勢力によって城も築かれた。この関所の名前は「虎牢関」。名前の通り、「虎の牢(檻)がこの付近にあった」という事に由来する関所なのだ。もはや言うまでもなく、その虎牢は先の高奔戎エピソードに因んでいる。この虎牢関、『三国志演義』において191年に生じた「虎牢関の戦い(悪逆の将・董卓軍と袁紹率いる反董卓連合軍との戦い)」で名を知る者も多いはず。


33)人物紹介:西王母

※百度百科「王母娘娘」から引用/こちらは人間的な西王母


 項目の順番が前後してしまうが、彼女は西域旅の途中で出会った重要人物だ。「西王母」は、中国古代神話で欠かせない女性・女王・女獣・女神または女仙である。一体どれが正しいんだという話になるが、この人は『穆天子伝』のみならず、古代作品のあらゆる場所に登場する重要人物でありながら、作品ごとに姿も立ち位置も異なるアイコン的存在なのだ。

 名前についても、俗称「王母娘娘」から「西老」「太霊九光亀台金母」「九霊太妙亀山金母」「瑶池金母」「西海聖母」等、多岐に渡っている。一般的には「王母娘娘(ワンムーニャンニャン)」が用いられ、学術的には「西王母(シーワンムー)」が用いられる。各作品で共通しているのは「西域にいて、何かしらの大きな力を持っている」という点だ。『穆天子伝』では「女王」の立ち位置として描かれている。

19世紀、中華人民共和国文化部部長を担当して「近代中国最大の共産作家」と評される小説家の「茅盾」が、西王母について次のように論じている。「中国の原始神話中にあっては、西王母は半人半獣の神であり、天の厲(祟り・災い)及び五残(五つの刑罰※)を司るという事は、すなわち凶神である。戦国に至り、己に些かの演化を経た結果、『淮南子』では公然と『羿※は不死の薬を西王母に請う』と説かれているが、この一句は西王母が漢の時代に入って凶神から『不死の薬を持つ吉神もしくは仙人』に代わったものと考えられよう。これが第一の演化である。漢の武帝が神仙を求め、方士たちを招致した時候に、西王母の演化は進んで第二期に入った。ここにおいて「不死の薬」から「モモ」という観念が生まれ、続く魏晋に入ると、西王母は完全なまでにその神性を拡張され、群仙の領袖となった。おそらく、これが最後の演化である。」

 そのような彼女と穆王が相席した宴会は、『穆天子伝』でもっとも盛り上がる重要な場面のひとつである。「天帝(世の全てを司る唯一神)」の血を引く西域の女王として、穆王一行が大いに歓迎されるのだ。

 西王母が盛大な宴会を取り仕切って、穆王に向けて壮麗な吟を披露する。その吟詩は次のような具合だ。「白云在天,丘陵自出。道里悠远,山川间之,将子无死,尚能复来?(天に白い雲があり、地に山々が聳え立つ、道のりは遥か彼方、山川が間を隔て行く、貴方の旅が順風となり死が訪れませんよう、そしてまたここに来て下さいますよう)」。穆王がこれに答える。「予归东土,和治诸夏。万民平均,吾顾见汝。比及三年,将复而野(私は旅を終えて東に戻り、そこで世を太平に導きますから、3年後、再びここに参りましょう)」。

この場面に男女の恋愛感情があったかどうかは、研究者によって意見の分かれる所だ。文面から純粋に論察すると、それは西王母から穆王への一方通行の恋なのかもしれない。西王母が「無事に旅を終えてまた逢いに来てね」と穆王自身を思い遣る言葉を付け加えているのに対して、穆王は「またここに来ます」と相槌を打っているだけに感じるからだ。もし少しでも穆王に恋愛感情があれば「ここに来ます」ではなく「貴方にまた会いに来ます」になるのではなかろうか。

 この後、また西王母は吟として穆王に長い言葉を掛けるのだが、穆王がそれに答えたという記述は無い。彼らは「遂駆升于弇山(そのまま弇山へと馬車を駆った)」という事らしい。こうした一連の様子から考えて、どうもここには穆王と西王母との気持ちのすれ違いがあったのかもしれない。


※「五残」は現代人の感覚からするとショッキングな五つの刑罰だ。「墨」「太辟(死刑)」はまだ良いが、「鼻切り・足切り・宮(男性は去勢・女性は幽閉)」という刑罰は本当にホラーである。その他、文献に残る古代王朝の刑罰は苛烈なものが多い。『封神演義』の「炮烙(熱した円柱に罪人をくくりつけて焼き殺す、または業火の上に油を塗った円銅を掛けて渡らせる)」を始め、「釜茹で」「耳切」「腰斬」「族誅(罪人の身内や親戚、三族または九族を処殺する)」「車裂(馬車・牛・馬と四肢を縄で繋いで八つ裂きにする)」「凌遅(少しずつ肉を剥ぐ)」など、想像をするだけで恐ろしい。軽い「杖罪(木製の杖をもって背中又は臀部を殴打する)」「笞罪(鞭打ち)」でさえも、多くの罪人は衝撃に耐え切れず死に至る。


※こういう話を聞くと、古代中国世界が野蛮だったという印象を抱く者もあるかもしれない。しかし、それは誤解である。古い時代においては、ヨーロッパだろうが中東だろうが中央アジアだろうが、どこでも空恐ろしい残虐性の高い刑罰が加えられている。例えば日本でも、江戸時代に来日していたポルトガル人宣教師ルイス・フロイスが、「ここの人達はポンポンと人の首を刎ねて平然としているのに、犬や猫を驚くぐらい可愛がっているもんだから、命についてどう考えているかよう分からんわ」と語っている。


※「羿(中国読イー、日本語読げい)」というのは、古代神話『嫦娥奔月』に登場する弓の名手だ。『嫦娥奔月』は「月と霊薬が登場する」「愛する男性から月に去らねばならない女性」というモチーフがあって、どことなく日本の『竹取物語』を連想する。『嫦娥奔月』のあらすじと概要については、次の項目参照。


※『嫦娥奔月』:

※百度百科「嫦娥奔月」より引用


 この物語は遥か昔に人々の間で伝承されて来た話に基づいて編集されたらしい。最も早い段階では約2000年前に制作されたという『帰蔵』に、嫦娥奔月の話が掲載されていると聞く。尚、『帰蔵』は陰陽概念が記された易書だったそうだが、現在では完全に失われている。ちなみに、『穆天子伝』の編集者「荀勗」はこの『帰蔵』という文献を目にしているらしく、『中經簿』でその話題に触れている。

 多数ある『嫦娥奔月』の記述だが、特に西漢時代に著された『淮南子』に書かれた物語が有名である。「遥か昔、九羽の怪鳥が火を噴いて、既にある太陽の他に九つの太陽を作った。その為、強烈な熱によって世が破滅しそうになった。その時、並外れた腕前を持つ弓の名人『羿』が怪鳥を打ち落とした。名を上げた羿はその後、激流により民を苦しめる黄河の神と戦った。その戦いの中で嫦娥という女性と出会い、愛し合って結婚をした。更に有名になった羿は西王母の宮殿に呼ばれた。西王母は彼を気に入り、『不死の効果のある霊薬』を与えた。この霊薬を持って羿は帰宅し、垂木の下に隠した。彼は野蛮人を討伐する依頼を受けて旅に出たが、その際に羿に敵対心を燃やす弟子・逢蒙がこっそりと霊薬に近づいた。嫦娥がこの陰謀に気が付いて、逢蒙と戦った。嫦娥は逢蒙に刺されてしまった。それでも嫦娥は相手に盗まれまいと、霊薬を飲み込んだ。すると彼女は光り輝き、羽が生えたように空を飛び、月に向かってしまった。逢蒙は逃亡した。帰宅した羿は事情を聞いてひどく悲しみ、涙した。彼は月の都に去って天女となってしまった妻を想い、毎年、秋の満月の夜になると庭にお供え物をして偲ぶようになった。これが、現代にも続く中秋節(お月見)が生まれた由来なのだ」――と、このようなあらすじである。様々なパターンが存在する話なので全てがこの通りではない。


※「羿」に関して、もうひとつだけ触れておきたい。実は、『穆天子伝』にも一瞬だけ「羿」が登場しているのだ。それは周王朝帰還後に見たという、穆王の夢の中。春分の季節、その年は異常なほど冷え込んで民から凍死者も出る騒ぎとなっていた。穆王が思い悩んでいる時に、「塗山で弓を射る羿」を夢に見たという。「塗山」とは「寿春(現・安徽省寿県付近)」の東北部にあった夏王朝時代の重要な国であり、ここを治めていた「塗山氏」からは皇后(女嬌)が輩出されている。とにかく、歴史と神々しさを伴う重要な地である。祭父が早速、穆王の羿の夢を占って解釈した。「祭公占之,䟽@之@(祭父がこれを占って、䟽@之@と解釈した)」との事だ。解釈部分が判別不能となっており、実に惜しい。ただ、穆王がどうして羿の夢を見たのかは、個人的に推測出来るように感じる。羿は「増えすぎた9つの太陽」を射落とした伝説の射手だ。穆王は「極寒の季節」と「射落とされた太陽」を無意識に連想させたのだと、私は思う。


34)「盛姬」:

※百度百科「褒姒」より引用/周幽王と褒姒の一場面/「褒姒」は周幽王が寵愛し、国難の原因となった女性(中国皇帝「女難」あるある)/穆王と盛姬も共に時間が永ければそちらの方面に発展したか?


 「盛姬」。彼女は原書『穆天子伝』の第六巻の冒頭でほんの一瞬間登場するだけなのだが、第六巻の全体を通じた主要テーマとして強烈な存在感を放っている。そして彼女は穆王を血の通った人間に仕立て上げ、『穆天子伝』を単なる旅行記や記録物ではない「物語」に昇華させてしまったように感じる。(もし盛姬が第六巻以外にも登場する人物であったら、本当に物語の本質が根本から変化するはずだ。それぐらい、第六巻における盛姬の存在は大きいのである。)

 事の経緯は次の通りである。穆王は周王朝への帰還後、しばらく内政に集中した後、西北に向かって「盛」の地に入った。そこで穆王は「盛柏の娘」と出会う。その次のシーン、「天子赐之上姬之长,是曰盛门。(天子は最上格の「姬姓」を与え、これを盛門とした。)」とある。おそらく穆王が娘と急激に親しくなり、「是非とも自分の名前(姬满)を貰ってくれ」とお願いしたという事である。

 これをもって娘は「盛姬」となる。この「最上格の姬姓」は「盛一族全体に与えた」という解釈もあるが、どちらにせよ、穆王は心の底から「盛姬」を愛したと見て間違いがない。そしてすぐさま、穆王は「盛姬」の為に「重壁台」という高台を築く。

 穆王と盛姬は睦まじく日々を過ごしたが、湿原で狩りに同行させた際、寒さ(先述「羿」に記載の通り、この年は凍死者が多数発生する程の寒冷状態だった)によって盛姬が病を患ってしまう。湿原に陣営を張って、穆王も家臣達も彼女を何とか快復させようと必死に奔走するが、彼女の病は悪化し続けた。盛姬はいよいよ自分の最期を悟り、告病(病気を発表して公務の座を退く手続き)を行い、そのまま帰らぬ人となった。

 「中国最古の純愛物語」とも評される美しくも哀しい展開だが、少し穿った考えを施してみると政治的には大きなリスクを伴っていた関係にも見える。言わば、「中国皇帝・女難あるある」である。中華世界は「①皇帝(王)が正室以外の女性に首ったけになる」「②皇帝が女性の事しか考えられなくなり、次第に政治が疎かになる」「③女性の縁者が権力の座に付きまくる」「④ちょっとヤバいっすよと進言できる正しい臣下が処罰され、皇帝と女性を祭り上げる佞臣が権力の座に付きまくる」「⑤もうあんな指導者あかんと言われ始め、遂に内部反乱が起きる」という流れで、政権または国が崩壊するというパターンが非常に多い。先ほどの幽王はまさにその顕著な例である。盛姫が早逝せずに長生きしていてれば、穆王もこの女難パターンを発現した可能性が十分にある。

 とにもかくにも、この別れは穆王に激しい衝撃を与えた。穆王はすぐに国を挙げての葬儀を執り行った。「天子命哭。启为主,(穆王は全ての群臣達に死者を弔う大泣きの儀礼を命じ、前例に拠らず、自らが喪主を務めた)」――という文章から始まり、物語の展開は手厚い国葬の内容にシフトする。

 祭父や井利といった重臣達から、叔㛗(穆王の娘)や伊扈(穆王の長男)、他国の「邢侯・曹侯」や「韋・谷・黄城の男子」まで、あらゆる人々が尽くして葬儀に参じた。「盛姬」の棺は、数千人に囲まれながらゆっくりと丘を進み、穆王との想い出の地「重壁台」にしばし据えられた。そして、棺が墓所に納められた後も、緩やかに地を進みながら葬儀が催された。穆王が盛姬に想いを馳せる葬儀の旅は、始まってから約1ヶ月後、「嚣氏」の地にて終わりを告げた。

 その別れの旅が終わった後、穆王は西南へそのまま降った。彼は「太行山」の坂を登った折、2本の柏の樹が生えている場所に腰掛け、木陰で休みを取った。この瞬間、穆王は「盛姬」を想い出した。涙がこみ上げた。その姿がいたたまれず、禁衛軍の兵士「葽豫」が穆王に歩み寄った。


葽豫:自古有死有生,岂独淑人?天子不乐,出于永思。永思有益,莫忘其新。(穆王、古より人には生があり、そして死があります。盛姬様だけが特別な悲運を受けた訳ではありません。穆王はその苦しみを永遠に胸中に抱こうとされています。しかし、私たち生きている者は前へ進まねばなりません。死を受け入れて、新しい道を進まねばならないのです。)


 この言葉を聞いた穆王は再び哀しみに打ち拉がれた。しかし、「是日辍(この日をもって悲しむのを一切止めた)」。穆王は旅を再開して、西へ馬を向けた。


「感情箱」エンジン解説

※3Dプリンターで制作した感情箱モデル/ ‎Shapr:3D モデリング CAD利用


 「感情箱」については、電子書籍『アイノイドに生命の揺れを』で論察を行なっている。これは「三元論」という考えに基づいた、人間の精神構造の基本モデルなのだ。それはXYZ値で表現出来る、5箱×5箱×5箱の立方体を想定している。この箱を平面的に図で表すと

次のようなものとなる。


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▼オープンソース:

※「右クリック」→「名前を付けてファイルに保存」で保存・閲覧可

Wordデータ

PDFデータ

画像データ(Zipファイル)

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 これらの図を踏まえて、今回の『穆天子伝』アドベンチャーゲームアプリに用いた選択肢を追って頂きたい。冒頭に登場する選択は以下の通りである。


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#穆王

(A.*001覚悟して1.-2.-2 *002大胆に1.-2.1 *003豪快に1.-2.2)

001

#穆王

異論は無い。今日、決する。


002

#穆王

案ずるな。決めるものは決める。


003

#穆王

決着を付ける。安心しろ。

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 「*001覚悟して1.-2.-2」というのは、 [X=1/Y=-2/Z=-2]の感情箱から引用を行なった表現である。X/Y/Zは、それぞれ人間の基本ソフトに組み込まれている「三元本能(生存本能/探究本能/調和本能)」を擬似的に再現する値である。この「感情箱」は、人間の「気質(アプリオリ/先天的・長期的・安定的な感情機能)」と「気分(アポステリオリ/後天的・瞬間的・流動的な感情機能)」を表現するシステムであるが、今回のゲームでは後者の「気分」のみを取り扱い、可能な限りシンプルな構成での制作を行なっている。

 本来の人間は現実・生体双方の知覚情報と紐付けされながら複雑に変動を続ける「気分」だが、ゲームアプリの選択はあくまで「蓄積をするだけ」の状態だ。プレイヤーがいずれかの感情箱を選ぶと、X/Y/Zの値が蓄積されていく。それぞれの値は時には加算され、時には除算される。そうして最終的なX/Y/Zの値(気分)により、以下の8通りの結末分岐を促すという仕組みになっている。更に細分化すれば125通りの結末を用意する事も可能である。ただ現実的には、1章につき8通りの結末を用意しつつ、これを数章続ける事によって段階的に複雑性を表現した方が、おそらくプレイヤーにとっては興味深い。


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<三元論に基づく3要素>

X 心地よい 心地悪い

Y 受け入れる 受け入れない

Z 講和する 拒絶する


<3要素に基づく感情箱的8項目>

エンディング#1

心地よい感情と共に

盛姫の永逝を受け入れ

犬戒と講和する道を選んだ

X+ Y+ Z+


エンディング#2

穆王は

心地よい感情と共に

盛姫の永逝を受け入れ

犬戒を制圧する道を選んだ

X+ Y+ Zー


エンディング#3

穆王は

心地よい感情を得たが

盛姫の永逝を受け入れず

犬戒と講和する道を選んだ

X+ Yー Z+


エンディング#4

穆王は

心地よい感情を得たが

盛姫の永逝を受け入れず

犬戒を制圧する道を選んだ

X+ Yー Zー


エンディング#5

穆王は

心地悪い感情を得たが

盛姫の永逝を受け入れて

犬戒と講和する道を選んだ

Xー Y+ Z+


エンディング#6

穆王は

心地悪い感情を得たが

盛姫の永逝を受け入れて

犬戒を制圧する道を選んだ

Xー Y+ Zー


エンディング#7

穆王は

心地悪い感情を得て

盛姫の永逝を受け入れず

犬戒と講和する道を選んだ

Xー Yー Z+


エンディング#8

穆王は

心地悪い感情を得て

盛姫の永逝を受け入れず

犬戒を制圧する道を選んだ

Xー Yー Zー

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 基本的に、選択肢となるのは「感情箱」で設置している箱同士である。何故なら、それが「気分」の特徴的動作であるからだ。(「気分」は現在の感情箱の位置を基点に動き、瞬間的にまったく別の場所へ移動する事は無い。常に、箱を連ねながら移動をする。)よって、先程の冒頭の「覚悟」「大胆」「豪快」は、「感情箱」の図3・4・5の位相をずらした同位置にある。

 そのようにして今回、まんべんなく「感情箱」を網羅するように物語への導入を行なったが、「気分」の性質に目を奪われた結果として、あまりゲームバランス調整については考えていなかった部分がある。したがって、「X+Y+Z+」「X−Y−Z−」の組み合わせのように、全ての正負が取り揃うような選択を行うのは至難の業かもしれない。本当にゲームとして何らかの形で導入するのなら、X/Y/Zの増減が均等になるように配分しなければならないのかもしれない。だが、それには「気分」の特徴である「連なり」を崩す事になると思われるので、あまり推奨はしたくない。その方法は、あまりに恣意的過ぎる(選択項目に対する人間的な真実味が無い)ように感じる。


「感情箱/三元論」は如何様にも転用可能

 どのような分野においても、定義や分類を行う際に使える魔法の鍵、それが「感情箱/三元論」である。今回はあくまでゲームという分野に限定して鑑みるに、この方法は今回のようなアドベンチャーゲームの選択分岐のみならず、「好感度の相関関係」「人物特性の相関関係」「攻撃性質の相関関係」「合成物の相関関係」など、あらゆる関係設定への転用が可能なのだ。

 例えば、魔法世界で何かと戦うようなアクションやRPGを想定してみよう。その場合、私は以下のような仕組みを瞬間的に構築出来る。


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①三要素の構築

X:攻撃的/防御的

Y:近距離型の/遠距離型の

Z:小範囲に及ぶ/広範囲に及ぶ


②三要素に基づく八項目の構築

A攻撃的で近距離型の小範囲に及ぶ魔法(剣を近くに飛ばすような魔法)

B攻撃的で近距離型の広範囲に及ぶ魔法(爆弾を近くに飛ばすような魔法)

C攻撃的で遠距離型の小範囲に及ぶ魔法(剣を遠くに飛ばすような魔法)

D攻撃的で遠距離型の広範囲に及ぶ魔法(爆弾を遠くに飛ばすような魔法)

E防御的で近距離型の小範囲に及ぶ魔法(盾を近くで作れるような魔法)

F防御的で近距離型の広範囲に及ぶ魔法(壁を近くで作れるような魔法)

G防御的で遠距離型の小範囲に及ぶ魔法(盾を遠くに作れるような魔法)

H防御的で遠距離型の広範囲に及ぶ魔法(壁を遠くに作れるような魔法)


※小範囲ほど威力が強まり、広範囲になるほど威力は弱まるとする。


③関係性の構築

E(盾を近くで作れるような魔法)はA(剣を近くに飛ばせるような魔法)を防げるが、B(爆弾を近くに飛ばすような魔法)には弱い。

F(壁を近くで作れるような魔法)はB(爆弾を近くに飛ばすような魔法)を防げるが、A(剣を近くに飛ばせるような魔法)には弱い。

…etc.

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 更にXYZ値を細分化すれば125の魔法も作れるであろう。もちろん、また更に細分化しても良い。その倍、6箱×6箱×6箱の感情箱による魔法、7箱×7箱×7箱の感情箱による魔法といった具合に、乗数によって項目の範囲が増築される。ただ、プレイヤー側が快適に取り扱える範囲は、やはり5箱×5箱×5箱=125箱が限界であるように感じる。そもそも、作っている側も関係性が複雑になりすぎて、おそらく頭がパンクをする。

 ここまでは非常にシンプルで一元的な「感情箱」の活用方法となるが、より「生命の揺れ」を演出したい場合は選択後のフィードバックを行うと良いだろう。プレイヤー選択によって生じた段階的な結果により、定義済みのXYZ値を常時変動させて分岐の結果を揺るがせるのだ。これを可能とすれば、ひとつのゲームでありながらプレイヤーの数だけ無限大に設定が異なる状況を演出出来るのである。ただ、こちらもフィードバック段階を細分化する程に制作側の頭パンクを誘うので、このような「揺れ」を生じさせる項目は多くても8個程度に収める必要があるだろう。

 このように「感情箱/三元論」を活用しながら、私は高次ロボット論理学の探究者として、近いうちに愛玩動物の機能設定を言語作品(または現実的な装置やプログラム等)にしたいと考えている。


2021/1/15

東道栗鼠/Todo Chris